●今月は、藤堂高虎が亡くなった月です。
●当時は、「七たび主人を替えないと一人前の武士ではない。」
と云われておりました。
高虎も主人を七たび替えました。
「関が原の役」の少し前に、
家康と出会って、
「これからは、家康だ。」と決め、
その後は、何が何でも家康でした。
●「関が原の役」後は、
前田家、
島津家、
毛利家、
山内家、
鍋島家、
福島家らと同じ
外様大名ですので、
家康に徹底的に尽くす事が、
「外様潰し」に合わない為の一つの生き方でした。
ですから、妻子を誰よりも早く、人質として江戸へ送りました。
●徳川の時代が安定しても、毎日、江戸城へ登城して、
世間から、「烏(カラス)の鳴かぬ日はあっても、
高虎の登城せぬ日はない。」とまで言われました。しかも、
あの世に行っても「家康の側に居たい」という事で、
宗旨さえも家康と同じ天台宗に替えました。
●下の写真は、
高虎の居城(津城・三重県津市)の
横矢掛かりを写したものです。