●今月は、山内一豊(やまうちかずとよ)が亡くなった月です。
一豊は、掛川(掛川市)5万石から土佐(高知市)24万石の
一国一城の主になった人です。
この昇進の陰に
一豊の妻・千代の力もありました。
写真予定
●「
関が原の役」の約2ヶ月前の事、
下野小山(栃木県小山市)で
作戦会議が開催されました。
この会議で一豊が「掛川の城と秤量を家康様に差し上げます。」
と家康に言った事がきっかけとなり
我も我もと家康に見方しました。
実は、この会議の前に一豊は、妻から送られて来た手紙を開封せずに
家康に差し出しました。この手紙は二通ありました。
一通は、
石田三成から(秀頼様へ見方するよう)の誘いの手紙
もう一通は、妻の千代からの手紙(大坂の状況説明)です。
実は、この二通の他に内緒にもう一通手紙が届きました。
その手紙には、先の二通の手紙を未開封のまま家康に差し出すよう
指示してありました。
この一豊の言動を家康が恩に感じて関が原の戦後
土佐24万石の領主に抜擢しました。
●一豊は、土佐で掛川当時の家臣と新たに徴募した武士を上士とし
土佐の旧主の家臣(長宗我部侍)を
下士としました。
土佐を二元性にしました。掛川時代の武士は進駐軍のような型になりました。
[上の写真は、土佐高知城の天守閣内部です。
欄間が面白いので写真を撮りました。]
●10月のよもやま話は、「平蜘蛛の釜」(松永久秀)です。
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