●今月は、千家が再興された日です。
●千
利休切腹の後、息子の
少庵(しょうあん)は、
会津若松の蒲生氏郷を頼って世話になりました。
3年後、
徳川家康と蒲生氏郷の計らいで
秀吉の怒りが解け
少庵は、
京都へ戻る事が許されました。
その後、少庵は、子供の
宗旦に家督を譲り
自分は、隠居しました。
●その宗旦には、4人の子供が居ました。
長男[宗拙・先妻の子]は、
父宗旦と折り合いが悪く、勘当されました。
次男[宗守・先妻の子]は、
塗師の吉文字屋に養子に入りました。
三男[
宗左・後妻の子]を千家の跡継ぎに定めました。
この家が「表千家」と呼ばれております。
四男[
宗室・後妻の子]は、
医者にしようと5年間医者の修行をさせましたが、
その後、彼を引き戻し、宗旦は彼を連れて、裏へ隠居し、
「裏千家」を興しました。
更に又、次男[
宗守]をやはり引き戻し、武者小路へ独立させました。
「武者小路千家」となりました。
●写真は、鶴ヶ城(会津若松市)天守閣前の広場です。
●中央の大きな高野槇は蒲生氏郷が植えたと伝わっております。
●この高野槇の下には、
少庵がお礼として氏郷に贈った茶室「鱗閣」が有ります。
●11月のよもやま話は、「小牧長久手の戦いの和睦」です。
又、聞いて下さい。
ご指摘・ご意見等ありましたら、是非
こちらまでメール下さい。
以前のよもやま話へ
表紙へ戻る
サイトマップ
Copyright 西室 博史 2003