●私、もう迷い苦しんでいます。
「大変な事を始めた。」と。
「今月のよもやま話」がいつまで続けられるものやら心配です。
『我敵は本能寺に有り』あの名文句の老ノ坂の話です。
老ノ坂の話をするのに現地を見たい、と思っておりましたので、
思い切って、夜行日帰りで、見に行って来ました。下の写真がそうです。
この、道標を見つけた時には、「あった。あったァ。」と、
思わず嬉しさのあまり、大きな声を出してしまいました。
●老ノ坂は京都南インターより
国道9号線を亀岡方面へ30分走った所です。
道標は老ノ坂トンネルの少し手前を左折した所に有りました。
●天正10年[1582]年6月1日の夜、
明智光秀が不安と恐怖と希望を胸に抱き、
軍勢1万3000を率いて
丹波の国と山城の国の境である峠ここ「老ノ坂」へ現れました。
ご存知の通り、織田信長を討つ為に。
●本来、信長の命令は、
羽柴秀吉が「中国の毛利を攻めている。その応援に行け。」
と言う事で、西[備中岡山]へ向うところを、
命令に背き、東[京都]に向いました。
兵には「信長様に軍装を見せる」と嘘の命令を出し、
この坂を越えました。
●光秀は迷い苦しんでいました。
その引き金となった事柄は、数日前の信長からの使者の口上です。
「丹波と近江坂本の領地に替えて、出雲、石見の2ヶ国を与える」との事。
確かに、領地は増え、石高も増える。
しかし、出雲、石見はまだ、敵国で、絵に書いた餅。
しかも、長い年月丹精込めて作ってきた坂本の領地を、
その一言で信長様に返さなくてはいけない。
替地を戴けるとは言うが、出雲・石見はまだ敵国であり、
戦が長引けば、食料が絶えてしまう。
家臣達や家族を飢えさせるわけには、いかない。
今回、運良く出雲・石見が戴けるとしても、
又取り上げられ、別の替地に移るのだろう、
人間は、道具では、無いのだ。
●そして、
愛宕神社で神の加護を願い、籤を引いた。
籤は、「凶」がでた。
《これは、何かの間違えだ、よし、もう一度》
又、「凶」が出た。
《私は、身勝手で、権威を破壊し、
人を人と思わない暴君を取り除くのだ。》
《天下の為・万民の為だ私個人の欲望の為では無い。》
《正義は、私に有る。今度こそ》
今度は、「吉」が出た。
《これで善し、神が私の正義を認めて下さった。》
《時は今だ。》腹に力が入り、籤を握った腕に、力が湧いてきた。
《良し》
●老ノ坂を下り沓掛で休憩し、馬に杯[バイ]を噛ませて、
草鞋を履かせ、音の出る物には、筵をかぶせ、桂川を渡り、
本能寺へ向かいました。
この後、水色桔梗の旗が本能寺を囲み、
信長が「是非もない」と発した、本能寺の変は、
又の機会にお話をさせて戴きます。