●今月は、豊臣秀長(とよとみひでなが)が亡くなった月です。
秀吉の弟です。父親が違います。
早くも余談ですが、不思議なことに秀吉は
父親の話は皆無と言われるくらいにしていません。
でも母親の事は大好きで大政所・従一位の位まで昇進させました。
さて、本題の秀長の話、通称大和大納言、秀吉は小一郎と呼んでいます。
歴史上秀吉に次いで二番目の長い出世階段を登った人です。
大和郡山城で58歳で亡くなりました。
[上の写真は、大納言塚と呼ばれている秀長の墓です。
後ろの五輪の塔の高さは約2メートルです。
近鉄郡山駅から徒歩8分の近さです。]
●秀吉の七光りで出世したわけではなく実力で出世しました。
秀吉に「内々の事は利休に、外の事は秀長に」と言わせたほどで
大和、紀州を治める100万石の大大名です。
秀吉と共に良く働き秀吉を良く支え続け
自分の立場を良く理解して秀吉を必ず立てて
出過ぎたまねはしませんでした。
温和な人柄の為に武将達から慕われていました。
病床に就いてからも秀吉の暴走を恐れ心配しておりました。
●秀長が死亡してから秀吉の暴走が一挙に始まりました。
利休の切腹、朝鮮への出兵、
甥の関白秀次への高野山追放切腹事件等です。
●最後に、秀長は、奈良の赤膚焼を興しました。
[上の写真は、郡山城(大和郡山市)の天主台跡にある逆さ地蔵です。
当時、石不足の為に奈良中の寺から庭石、礎石、
五輪塔が運び込まれました。]
●2月のよもやま話は、「利休の話」(掛軸)です。
又、聞いて下さい。
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