●今月は、聚楽第(じゅらくてい)の建築が始まった月です。
  ●聚楽第とは、豊臣秀吉の豪華な仕事場兼住宅です。
  
  
  
  秀吉の派手好みを集約した豪華絢爛たる建築です。
  一年半をかけて建築しましたが八年で取り壊しました。
  屋敷のような感じがしますが内容は外堀をめぐらした城です。
  本丸を中心に北の丸、西の丸等が有りました。
  秀吉の各大名もここへ屋敷を貰いました。
  
利休も屋敷をここに貰いました。
  ●唐突ですが、秀吉の第一子(鶴松)が二歳で亡くなった時に
  秀吉は、甥の秀次を自分の跡継ぎと決めました。
  関白の地位も譲り、同時に聚楽第も譲り秀次の住まいとしました。
  しかし、その二年後に第二子(秀頼)が生まれました。
  すると秀吉は、自分の息子(秀頼)を跡継ぎにしたいと思いました。が、
  甥の秀次が関白職に就いていました。
  そこで、秀次に謀反の疑いを掛けて
  高野山に追放し切腹させました。
  更に、秀次の形跡を無くす為に秀次が住んでいた聚楽第を急ぎ取り壊しました。
  ●
西本願寺の飛雲閣、大徳寺の唐門、
妙覚寺の山門が
  聚楽第の遺構と云われています。
  
  
  
  ●上の写真は、市立正親小学校(上京区)の東北角にある聚楽第跡の碑です。
  碑には、「この付近 聚楽第跡」と彫ってあります。
  ●下の写真は、聚楽第に有った井戸の跡です。「
梅雨の井」と呼ばれています。
  西陣の石浦様(左側)、新町の福永様(中央)のお世話で写真を撮ることができました。
  住所は、昔ながらの表示ですと
  「大宮通下長者町上ル一筋目西入ル一筋目上ル」です。
  数字の番地はないです。
  ややこしい住所表示ですがとても分かりやすいです。
  ●3月のよもやま話は、「元の木阿弥」(筒井順慶)です。
  又、聞いて下さい。
  
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