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今月のよもやま話

平成13年9月・長月

火牛の計(北条早雲)

●今月は、北条早雲こと伊勢新九郎長氏が、明応4年[1495]に、
「火牛の計」で小田原を手にした月です。
●「火牛の計」とは、
牛の角に松明[たいまつ]を付けて走らせ、
少ない軍勢を多く見せかける計です。
古代中国の話、
戦国時代に斉の田単が敵国・燕の名将楽毅を策略で追放し、
楽毅の居ない燕軍へ夜陰に乗じ1000頭の牛の角に
松明を付け[火牛の計]で、斉軍を大勝に導きました。紀元前の話です。
又、本国では、源平の頃、
木曽義仲が倶利伽羅峠の戦いで、
「火牛の計」を用い、平維盛の陣を奇襲し、大勝を治めました。
話がそれました、本題に戻ります。
●とにかく、早雲は、「火牛の計」を知っていて、これを使った。
この事だけを見ても、早雲は、相当な知識人だったのでしょう。
●火牛の計は、若く、たくましく、益々登り調子のイメージがしますが、
早雲は、益々登り調子には、違い有りませんが、
年齢が木曽義仲と違って若くはなく、なんと、このとき64歳でした。
当時としては、かなりな老人だったと思います。
でも、彼は、55歳で結婚したのですから、気は若かったのでしょう。
●さて、当時は、
鹿が増え過ぎると、畠を荒らす為、鹿狩りをしました。
そこで、早雲は、小田原の領主大森藤頼に、
「我国で鹿狩りをしたところ、鹿が箱根の山へ逃げ込んでしまった為、
勢子[せこ]を箱根の山へ入れて、鹿を我国へ追い返したいが、
許可を願いたい。」と申し出ました。
勢子はもちろん、早雲の家臣です。
そして、芦ノ湖の湖畔に、密かに牛を集めました。
この牛の角に松明を付け、早雲軍の後詰の様に見せかけ、
小田原城を一気に襲い、大森藤頼を追い出して、
小田原を得ました。
●よその国を盗れば、大悪人ですが、
早雲には、それ程の悪いイメージは無いです。
それは、幻になった旧体制[守護・地頭制]から
民を開放し、安い税金で暮らしが成り立つよう、
小田原に進出し、新しい体制を創ったからです。
又、早雲は、「おせっかい」と言われるくらいに、
民の面倒を良く見ました。
小田原の地侍達も早雲に賛同し、喜んで、早雲を迎えました。
この時、戦国時代の幕が切って落とされました。
●早雲は、この後88歳まで長生きしました。
北条家は代々この安い税率は替えませんでした。


●写真は、JR小田原駅前の像です。
なんと64歳の雄姿です。
●今月はこれにてお仕舞いです。
有難うございました。
●10月のよもやま話は「三増峠の戦い」です。又、聞いて下さい。

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Copyright 西室 博史 2001